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『異文化適応のマーケティング』第一章「文化というプロセス」(本間大一訳)
 先週、翻訳書が出版された。国際マーケティングの本ではあるが、特異な本である。文化の説明から始まるところがユニークである。第1章から第3章までは、本間君(マクロミル在籍)が担当した。本書のフレーバーがよくわかる章である。最初の部分を紹介する。


 第1章 文化というプロセス

 国際マーケティングという場では文化が重要な役割を担っている。無論、文化がすべてを動かしているわけではない。個人の行動は文化に影響されるが、文化ですべてが決まるわけではない。人間の行動には[意識から無意識]まで様々な層が影響を及ぼすが、文化はその1つである。おそらく文化というものは、そのただ中に身を置いたままではその存在を認識するのがきわめて難しく、また外部から認識するのもきわめて難しい。

 文化が何に影響を与えるのかを理解するのは思いのほか複雑なことである。文化は複雑である。異文化の理解には多くの場合限界があるため、表面的な観念やステレオタイプ的な観念に頼ることを余儀なくされる。文化を他のものから切り離して純粋な形で取り出すのは難しい。国際マーケターは、国もしくは国民国家 (nation state) を基準にして市場のセグメンテーションを行うことが多いが、これはセグメントの境目を定義しやすいからである。だが、民族・言語・宗教集団が単一な国などほとんどない。

 本章では以降で展開する議論の基礎を準備しよう。まず、文化というものを定義し文化を構成する主な要素を定義する。文化と国家とを同一視することの問題点を議論し、これに代わる文化の分類方法を提案する。


1.1 文化を定義する

 19世紀にEmile Littre' が著した辞書によれば、フランス語の文化(culture) という単語は「耕作、農耕活動」と定義されていた。今日用いられているような抽象的な意味の起源はおそらくドイツにあると思われる。ドイツでは既に18世紀からKulturという語を今日でいう「文明 (現代英語のcivilization) 」の意味で使っていた。アングロサクソンの世界で culture が抽象的意味で広く用いられるようになったのは20世紀初頭である。以下に、文化の定義をいくつか引用する。定義を列挙するのはまるでジグソーパズルに新しい一片 (ピース) を加えていくようなものだが、こうすることで抽象的でとらえどころのない文化という概念の主要な有様がわかってくる。

< 普遍的な問題に対する特殊な回答 >

 Kluckhohn and Strodtbeck (1961) 1は、以下の基本的な論点を強調している(p. 10)。


(1) すべての人がどんな時代にあっても解決しなければならないような人類共通の問題が存在する。だがその数は限られている。
(2) そうした問題の解決法は様々だが無限にあるわけではないし、でたらめに決まるものでもない。可能な解決方法の範囲内でのみ可変である。
(3) どんな社会のどんな時代であっても、すべての解決方法のすべての選択肢は存在している。だが、どの解決方法が好まれるかは異なる。どんな社会にもひとつの優勢な価値志向性パターンがあるだけでなく、多数の派生的パターンや代替的パターンがある。


< 文化はどのように個人と社会を結びつけるか >

 文化人類学者のラルフ・リントン(Ralph Linton) 2は、文化と個人の間のつながりを強く主張している(p. 21)。「文化とは、学習された行動の集合であり、その構成要素がある社会のメンバーによって共有され伝承された結果である。」彼はまた、社会が文化を通じて個人の行動を完全にプログラミングしてしまうわけではない、と主張する(Linton, 1945, p. 14〜15)。

 個人をどれほど慎重に訓練しうまく条件付けを行ったとしても、その人が他とは違う個体であることにかわりはない。彼は自分自身の欲求を持ち自分自身で考え感じ行動する力を持っている。さらに個性もかなりの程度残ったままである。・・・(中略) ・・・ 実は、社会における個人の役割は二重である。通常の環境下では、条件付けがうまくいった結果として社会構造に統合される度合いが完全であればあるほど、彼は社会の円滑な機能に対して効果的に貢献することになり、彼が受ける報酬もより確かなものとなる。しかし社会を取り巻く世界は常に変化しており、社会はその中でうまく機能しなければならない。人類には、変わり行く状況に合わせて対処し類似の状況に対するより効果的な反応を作り上げてゆくという比類なき能力がある。この能力は、社会や文化が個人に対してどれほど影響を与えても各個人の中に残っている個体性に基づく。一方、社会という有機体の一構成単位としての個人は、現状をいつまでも維持する。

 文化は社会にとっても個人にとっても有用である。人は社会参加を通じて、社会の中にある不文律を学ぶ。この不文律のおかげで日常的な活動は簡素化される。Goodenough (1971) 3 によれば、文化とは複数の個人によって共有される信念または規範の集まりである。文化のおかげで人々は、物事は何であり、どうあるべきで、どう感じるべきか、自分が何をすべきか、どう付きあっていけばよいのかを決めることができる。Goodenough (1971) の定義に従えば、「文化」と「社会」を同じものと考えるべき理由はない。むしろ「文化」を「ある集団の内部で共有されている、活動」と定義した方がよい。個人は、別な集団との相互作用を通じて、異なる文化を共有することがある。この場合、人は「操作的文化 (operational culture) 」と呼ばれる文化を採用するかも知れない。ここで操作的文化とは、「協力して仕事をしている人々が共有している文化」という意味である。

 Goodenough (1971) の操作的文化という概念は、個人はどんな時、どんな状況下でも、自分が採用する文化を選択できる、と仮定している。文化が過去の経験から正しく内面化される支配的な状況に左右される。この操作的文化という概念には多分に議論の余地があるが、今日の社会の文化的多重性に目を向けさせてくれる点で優れている。

 二重国籍を持つ人や、多言語使用者、特定の国のアイデンティティを持ちながら同時に国際的な専門家である人、あるいは国際的企業文化など、現代の社会は文化的多重性が著しい。また、操作的文化という考え方は、個人が文化を取り入れていく源泉に目を向けさせてくれる。


1.2 文化を構成する要素

 文化は構成要素の集まりによって特定される。各要素は、互いに有機的に関連しており一貫性のあるまとまりとして機能している。これら相互に関連した要素には、知識、信念、価値観、芸術、法律、マナー、道徳、その他、社会の構成員が習得したあらゆる技能・習慣が含まれる。文化を構成する要素は後天的に獲得される。また人間の生物学的特性や、言語、社会制度、物質的生産、象徴的生産によって強化される。文化は単なる「道具箱」ではない。ある意味で、日々の集団生活の「使用説明書」でもある。

 マリノフスキー (Malinowski) 4 は次のように述べている。「文化に関する理論は、すべての人間は動物の一種であるという事実を基礎しなければならない・・・(中略)・・・いかなる文化も、担い手である集団に栄養を継続的かつ正常に補給できなければ存続し得ない。(p. 75)」 彼は食習慣の例を取り上げ、食習慣は生物学的でもあり、文化的でもあると考えるべきだ、と論じた。

 飢餓もしくは食欲―つまり食行動への準備状態―に関しては、文化的が決定的な影響力を持つことは周知の事実である。食べても体に害がないものはなにか、食べることが許されるものはなにか、食べることが倫理的に正しいか、といった制限がある。また、品質・原料・調理方法に対する呪術信仰的タブー、衛生面のタブー、社会的タブーがある。慣習によって食欲の起こる時間や食欲の種類が決まっている。こうした事実はわれわれ西洋文明内にも例示できるし、あるいはユダヤ教やイスラム、バラモン教・原始的文化などの規則や原理、でも例はみつかるだろう。

 この引用文から、飢餓という生物学的欲求が文化からどのように影響を受けているかがわかる。

 文化の主な構成要素は次の4つである。
a) 言語
b) 社会制度
c)物質的生産
d)象徴的生産

 ひとつの文化的な事物は、上記の4要素の1つ以上に属することもある。例えば音楽は、言語でもあり、社会制度でもあり、芸術作品でもあり、象徴な要素でもある。


< 文化を構成する要素としての言語 >

 言語は文化の重要な側面である。ベンジャミン・リー・ウォーフ (Benjamin Lee Whorf) という言語学者兼人類学者がいる。彼は火災保険会社の化学技師として働きながら、余暇にはネイティブアメリカンの言語の起源と文法を調べ続けていた5。彼は、「ウォーフ仮説」あるいは「ウォーフ・サピア仮説」と呼ばれる、影響力が大きくまた大論議を呼んだ仮説を提唱した人である。本書でも第6章の市場調査、第9章のブランド、第13章・第14章のマーケティングコミュニケーションといった、言語的もしくは言語学的な問題に焦点をおく章では、このウォーフ仮説の論点を明示的、または非明示的に取り入れている。

 ウォーフは、人が自分の生まれ育った共同体で学んだ言語がその人の世界観と社会的行動を形成し構造化する、と主張した。言語は、人がどのように問題を選択しどのように解決しどのように行動するかに影響を及ぼす。ウォーフ仮説は多くの言語学者から厳しく批判されて来た。科学的に検証された完全な理論ではないが、基本的な比喩としては今日でも有効である。

 言語は時制と単語を通じて時間に関連する行動を形作り、その結果、時間の正確さ、営業時間、時間をかけた交渉など、消費者と企業の態度・行動に影響を及ぼす。例えば、アフリカのバンツー族の人々は、多くの西洋文化とは異なり、「今」と「ここ」を明確に分ける単語を持っていない。


< 文化を構成する要素としての社会制度 >

 社会制度という文化構成要素は、個人と集団とを結びつけるもので、いわば文化というプロセスの「背骨」である。

 ここで、「社会制度 (institution) 」とは、政治的制度やあるいはなんらかの社会組織であって個人に規則を守るよう勧め、代わりに報奨(食糧の供与、愛、金銭など)を与えるものだけではない。これには家族も含む。規則は静的ではない。個人は、変化の先を見越した行為の担い手として集団の中で行動することもある。制度が個人に課す規則は固定的ではない。個人が制度内からの変革を担うものとして行動することもある。

 マリノフスキー(Bronisław Kasper Malinowski)4 は、多くの文化に見られる制度形成の普遍的な原理を、以下の7つにまとめた。

(1) 生殖の原理: 血縁と、確立した契約の枠組みとしての結婚が人々を統合する。
(2) 縄張り意識の原理:近隣の人々が命令する共通利益が人々を統合する。
(3) 生理学の原理:生物学上の性別、年令、身体上の特色やハンディキャップが人々を統合する。性による分業、性役割、世代間関係のパターン、共同体の少数メンバーの扱われ方などが含まれる。
(4) 自発的参加傾向の原理:共通の目的が人々を統合する。様々な種類の原始的秘密結社、クラブ、芸術的な協会といった団体など。
(5) 職業的・専門的活動の原理:分業と専門知識・技能が人々を統合する。近代社会では、産業組織、労働組合、法廷、警察、軍隊、教育機関、および宗教団体などが含まれる。
(6) 階層 (ヒエラルキー) の原理:地位とステイタスが人々を統合する。貴族、中産階級、奴隷など。一般に社会階級システムもしくはカースト制度がこの例。
(7) 全体性の原理:多様な要素がひとつのかなり一貫性を持った全体ととして統合される。封建制、民主制、神権制、独裁制といった政治制度を見るには全体性という考え方が必要である。どんなレベルの制度であれ、それだけを取り出して調べても文化がどのように作動するかはよくわからない。より詳しい理解のために、何人かの研究者が集団と個人の価値との多次元関係を研究した。データベースの1つにWorld Values Survey(WVS)がある。WVSは、文化内と異文化における多様な大衆の価値観と信念を追跡する。


< 文化を構成する要素としての物質的生産 >

 私たちの社会の生産物や産出物は、コミュニティ内部の知識や技能を伝達し、再生産し、更新し、改良する。ここで「生産物」には物理的製品(道具、機械、工場、紙、本、器具、コミュニケーションメディア、食物、衣服、飾りなど)だけでなく、知的生産物・芸術的作品、サービス商品も含まれる。

 私たちは、影響力の強い「文明 (civilization、ドイツ語ではKultur)」と、その文明を使って財やサービスを効率よく生み出している「文化共同体」とを、混同してしまうことが多い。モノの消費量が多く、モノが豊富だからといって、その文化が優れているというわけではない。世界中の文化に優劣をつけるのは、どんなやり方にせよ、主観的な判断でしかない。有形財への態度は文化によって様々である。例えばKumar (2000) 6 は、インドと中国の世界観の違いを論じている。バラモン教に基づくインドの世界観は内面の精神性という目標を持っている。何かを達成することよりも、精神のあり方重視する。富、物を獲得することや、物を作ることにはあまり価値を置かない。逆に、中国の世界観は儒教的実用主義に基づいており、円満な社会秩序を目標としている。能力主義と勤勉とを重んじ、精神世界よりも物質的世界での行動に関心を持つ。

< 文化を構成する要素としての象徴的生産 >

 象徴的で神聖な構成要素は、物質的世界と形而上学的世界との関係を決定する。形而上学的世界を一切否定する文化もある。別の文化では、形而上学世界が日常生活の中に実在している。来世はあるのかないのか、あるならば、どのようなものか。文化共同体は、宗教的あるいは道徳的な信念を通じて、こうした問いへの答えをはっきりと示そうとする。一見、19世紀末以来の科学の進歩によって、人類は形而上学的世界と決別したかのように見える。だが、近年は、科学的知識によって形而上学的な問題が完全に解決されるわけではない、と認める科学者も多い。

 興味深いのはこうした問題への回答自体ではない。いろいろな文化の倫理的・宗教的前提が、個人や集団の行動にどのように影響するかという点である。

 文化の象徴的な諸側面は、強い力を持っている。本書全体を通じて、そうした例を示してゆく。マーケティングコミュニケーションの領域では、象徴の文化的解釈がとりわけ重要である。製品やとその広告は、色や形、ラベル、ブランド名、といった象徴を通じて伝達される。そして象徴がどのように解釈されるかは、文化と強く結びついている。解釈次第では、ブランドの死活問題にもなる。例えば中国の消費者は、8は縁起のいい数、4は縁起の悪い数と考える。そのため、数字の8が入ったブランドには好感を持つが、数字の4を含んだブランドは嫌われる。

 伝統的社会では、象徴的な思考や行動を意識的に行うことが近代社会に比べて多かった。説明できないことが多いほど、理由付けが必要だからである。太陽はなぜ毎日輝いているのか。太陽が見えなくなるのは凶兆なのか。恵み深き光を野に川に注いでくれるよう、太陽を満足させるには何をすればいいのか。先コロンビア文明では血生臭い儀式を行って生贄を捧げたが、ここには象徴的な内容がたくさん含まれている。人間が生贄として太陽に捧げられ、生きている人間から取った生血と心臓も捧げられた。

 現代の生活では象徴的な側面ほとんどなくなったと考えがちだがそれは誤りである。象徴はもっぱら宗教的・形而上学的なもの関連するわけではなく、日常生活の中にも広がっている。人々は、多くの象徴や手がかりの力を借りながら、自分の生きている複雑な世界を理解しているのだ。

< 集合的指紋としての文化:文化に優劣はあるか >

 指紋には、違いはあっても優劣はない。文化も同じである。文化は、私たちのアイデンティティの、いわば集団的な指紋である。ある文化的集団がしかじかの要素から見て「客観的良い」とか「客観的に悪い」、などということはない。こうした優劣判断は、主観的な視点によるものだ。文化には違いがある。だがどの文化も、別の文化よりも世界的に優れている、劣っている、などということはない。文化を評価し序列化することも、できないことはない。だが、そういう行為自体が、特定の文化に根ざした評価基準に基づいく、非常に特殊な文化に関連した行為なのである。ある人は良い戦士になるかもしれない。他の人々は、より美的な判断を持っている。別の人々は、音楽の天才である。

 文化とは、首尾一貫した構成要素の集まりである。文化の比較を行うと、それぞれの文化から一番よいものを選んで理想的な組み合わせを作れるのではないか、と錯覚することもあろう。だが、後述するとおり、それほど単純ではない。

 ヨーロッパ人を題材にした、こんなジョークがある。「天国とは、フランス人が料理長を勤め、ドイツ人が整備士、イギリス人が警察官、イタリア人が恋人、スイス人が全体を取りまとめている世界だ。地獄とは、警察官がドイツ人、整備士がフランス人、料理人がイギリス人、恋人がスイス人、取りまとめ役がイタリアの世界だ。」それぞれの文化から悪いところを捨てて良いとこを集めるのは難しい。また、それぞれの文化のよいところをあわせても惨憺たる結果に終わる、というわけである。個人のレベルにあるアイデンティティに対応する高いレベルでの首尾一貫性が必要だからである。

| Kosuke Ogawa | 11:04 | - | - | pookmark |

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